香木の基礎

蘭奢待はなぜ香るのか — 正倉院の香木と、結香の仕組み

蘭奢待が香るのは、木が傷を受けたあと、幹の中の介在師部という組織に樹脂を溜めたからです。2024年度の科学調査では、実物でもこの組織が傷害を受けていたことが観察されたと発表されています。千二百年たっても香るのは、その成分が常温ではほとんど揮発しないからです。正式名は黄熟香、長さ156.0cm、重さ11.6kgの沈香です。

目次

蘭奢待の正式名は、「黄熟香」です

蘭奢待(らんじゃたい)は雅名で、正倉院の宝物としての正式名は黄熟香(おうじゅくこう)です。宮内庁正倉院事務所の宝物検索には、番号は中倉135、分類は薬物(正倉院の宝物分類上の項目です)、寸法は「長156.0 重11.6kg」、材質は「散孔材の香木」と記されています(散孔材は、水を通す道管が年輪の中に散らばって並ぶ材のことです)。公式の解説文は短く、こう始まります。「巨大な沈香。産地はベトナムからラオスにかけての山岳部とされる」。

雅名の三文字には、「蘭」に「東」、「奢」に「大」、「待」に「寺」が隠れています。東大寺の香木、という意味を文字の中に畳み込んだ名前だとされます。この読み解きは公式解説にも書かれています。

黄熟香(雅名・蘭奢待)は長さ156.0cm、重さ11.6kg。宮内庁正倉院事務所の公式記載から。
「蘭」「奢」「待」の三文字の中に、「東」「大」「寺」が隠れています。

何の木か — ジンチョウゲ科の木で、材の名は沈香。「伽羅」とは書かれていません

宮内庁の公式解説が使っている言葉は、「沈香」です。

沈香は、ジンチョウゲ科アクイラリア属の木が傷を受けたときに、木部に沈着させた樹脂を含む材のことです。蘭奢待もそれで、産地はベトナムからラオスにかけての山岳部と推定されています。この産地と分布が重なる種としてAquilaria crassnaが知られていますが、蘭奢待がどの種の木かは公式には同定も公表もされておらず、この記事でも断定しません。

「蘭奢待は伽羅」と書かれた記事をよく見かけます。日本の香道の枠組みでは伽羅に位置づけられることもありますが、公式の記載は「沈香」で、この記事もそれに従います。伽羅は沈香の中の呼び分けで、別の木ではありません(沈香と伽羅の違いの記事)。産地で使われる「奇楠(きなん)」という呼び名も、蘭奢待の話には持ち込みません。香道の伽羅とは判定の基準が別だからです(奇楠とは何かの記事)。

なぜ香るのか — 木が傷を受けた跡だからです

沈香の木の幹は、水を通す木部(もくぶ)と、養分を通す師部(しぶ)からできています。師部はふつう樹皮のすぐ内側にありますが、沈香の木では師部の一部が木部の中に島のように取り残されています。これを介在師部(かいざいしぶ。材内師部とも、interxylary phloem)といいます。

介在師部と、幹の中心から外へ放射状に走る木部放射組織は、木の中では数少ない、生きた細胞が集まっている場所です。木が傷害や菌の侵入を受けると、この生きた細胞が反応して香りの成分をつくり、樹脂として周囲に沈着させます。樹脂を含んだ介在師部は沈香の鍵となる構造で、真贋の鑑別の根拠にもなる、と研究は述べています(Liu ら 2019)。

2024年度に宮内庁正倉院事務所が行った科学調査は、この仕組みが蘭奢待の実物でも働いていたことを示しました。同事務所は、京都大学の木材学の研究者に「木のどの部分から香りが生じているか」の調査を委嘱しました。大型放射光施設SPring-8でごく小さな脱落片をマイクロX線CTで観察した結果、「材内師部といわれる組織が傷害を受け、香りの成分が合成されていた」ことが分かったと、2025年9月1日の報道で伝えられています(科学技術振興機構 Science Portal 2025)。

つまり蘭奢待が香るのは、8世紀から9世紀ごろのどこかの山で、この木が傷を受け、傷の周りの介在師部に樹脂を沈着させたからです。木にとっては、怪我の跡です。

そして、これは蘭奢待に限った仕組みではありません。野生の沈香も、人が穴を開けて結香させた栽培沈香も、樹脂が沈着する組織は同じです。当店の提携農園が幹に穴を開けるのは、この組織にまで傷を届かせるためです(結香の記事)。

傷の周りの介在師部と木部放射組織に、樹脂が沈着します。蘭奢待の実物でも、介在師部に傷害の跡が観察されたと発表されています。

千二百年たっても香るのはなぜか

蘭奢待が千二百年たっても香るのは、香りの成分が常温ではほとんど揮発しないからです。

沈香の香りの成分は、セスキテルペン類(炭素原子を15個もつ、樹木や香辛料の香りによくある成分のグループ)と、2-(2-フェニルエチル)クロモン類(沈香にほぼ固有の、より重くて甘いグループ)の二つが主で、どちらも樹脂の中にあります。野生・栽培の奇楠系統の材でも、香りの主役はこの二群であることが報告されています(Yang ら 2021)。この二群は、常温ではほとんど揮発しません。沈香を常温から段階的に加熱した分析でも、香りに関わる成分の放出量は常温と100℃ではまだ少なく、100〜200℃でセスキテルペン類と芳香族化合物が主になると報告されています(Xie ら 2026)。揮発しにくいということは、失われにくいということです(長い年月のあいだの化学変化まで否定するものではありません)。熱を加えてはじめて、成分が気体になって鼻に届きます。

2024年度の調査でも、同じことが別の形で表れています。常温で揮発する成分を捕まえるヘッドスペース分析は、沈香が常温では揮発しにくいため、あまり有効ではなかったと報じられています。千二百年のあいだ香りが残ったのと、常温で分析しにくかったのは、同じ性質の裏表です。

香木が常温ではほとんど香らず、温めてはじめて香る仕組みは香りの仕組みの記事に、保存の考え方は保存方法の記事に書きました。正倉院の宝物として、長く倉の中で守られてきたことも、条件として重なっています。

常温ではほとんど揮発しないから残り、温めるから香る。同じ性質の裏表です。曲線は模式図で、縦軸の量は実測値ではありません。80〜120℃と150℃は当店の材で試した目安と実測です。木部の熱分解が本格化する目安の220℃は、木材の主な成分の熱分解を測った研究によります(ヘミセルロースは220〜315℃、セルロースは315〜400℃で主に分解し、リグニンは160℃あたりからゆるやかに分解。Yang ら 2007)。

どんな香りなのか — 2024年度の科学調査で分かったこと

「蘭奢待はどんな香りか」という問いに、成分の分析から答えを示したのが2024年度の調査です。

調査に使われたのは、正倉院が以前から保管していた、幅約1mm、長さ数mmほどのごく小さな脱落片です。本体を新たに切ったわけではありません。ガスクロマトグラフィー質量分析に加え、成分を嗅ぎ分けながら特定するGC-オルファクトメトリーという手法で分析した結果、300を超える物質が検出されました。量としてもっとも多かったのは3-フェニルプロピオン酸です。ただし、量が多い成分と、香りの印象を決める成分は別です。全体の香りの印象をもっとも強く決めていたのは、ラブダナム(地中海沿岸に育つ低木から採る、甘く重い樹脂状の香料)に似た、甘くスパイシーな香りの成分だった、と発表されました。

3-フェニルプロピオン酸は、沈香の研究論文を読んでいる方には見覚えのある名前です。沈香が形成される過程でフェニルプロピオン酸類が検出され、クロモン類の生合成に関わる可能性が指摘されているからです(Liao ら 2018)。ただし、蘭奢待でもっとも多かったこの成分が、クロモン類の生合成に関わったと確かめられたわけではなく、ここでは並べておくだけにします。

この分析と、実際に蘭奢待を嗅いだ記憶をもとに、香料会社の調香師が、ラブダナムを基調に甘いバニラ系やスパイシーなアニス系の香料を組み合わせて、香りを再現しました。再現香は2025年の展覧会で公開されました。大事なことを一つ書いておくと、再現されたのは調合した香りであって、蘭奢待という香木がつくられたわけではありません。沈香の香りの成分を人の手でつくる研究がどこまで来ているかは、人工沈香の記事に書きました。

なお、放射性炭素年代測定では、蘭奢待の原木は8世紀から9世紀ごろに伐採されたか、倒れたかしたものだと報告されています。これらの調査結果は記者会見で発表されたもので、学術論文としての公表は、この記事を書いた時点では確認できていません。

切り取らせた三人と、正倉院のもう一つの香木

宮内庁の公式解説は、蘭奢待を切り取らせた人物として、足利義政、織田信長、明治天皇の三人の名前を挙げています。それぞれの年や、切り取った大きさ、付けられた付箋の文言については諸説が伝わっていますが、一次資料で確かめられる範囲はこの三人の名前までなので、この記事でもそこまでにとどめます。

正倉院には、蘭奢待と対にして語られる香木が、もう一つあります。全浅香(ぜんせんこう)で、雅名を紅塵香(こうじんこう)といいます。こちらは国家珍宝帳(756年に光明皇太后が聖武天皇の遺愛の品を東大寺に献納したときの目録)に載る品で、象牙の付札には、天平勝宝5年(753年)3月29日の仁王会(にんのうえ。国の安穏を祈る法要)で用いられたことが記されています。そして、樹脂分が少なく水に浮くため、「沈香」ではなく「浅香」と呼ばれています(正倉院展公式サイト)。一説には、この二つはもともと同じ一本の木から採られたもので、全浅香が幹の部分、蘭奢待が根の部分ともいわれます。ただし、確かめられた話ではありません。

「沈香」と「浅香」という、正倉院に伝わる二つの香木の呼び分けにも、沈む・浮くの区別が刻まれています。沈水は樹脂の量を示す物理的な事実で、香りの質を保証するものではない、という話は沈水の記事に書いたとおりです。全浅香は浮きますが、国家珍宝帳に載る名香です。

千二百年前の沈香と、いま手に取れる香木

蘭奢待は、値段のつくものではありません。公開された売買の事例は見当たらず、「いくらの価値か」という問いに答えはありません。この記事も、値段を推定しません。

蘭奢待と、いま香木店で買える栽培の沈香とのあいだには、いくつもの距離があります。野生の木が、誰にも管理されず、何十年もかけて樹脂を溜めたこと。長い年月、宝物として保管されてきたこと。そして、沈香を産する木(ジンチョウゲ科アクイラリア属およびギリノプス属)は、いまワシントン条約(CITES)の附属書IIに掲載されていて、野生か栽培かを問わず、国際取引には原則として輸出国が発行する書類が要ること(ワシントン条約の記事)。

当店が扱っているのは、野生の沈香・伽羅ではなく、人の手で結香させた栽培伽羅です。蘭奢待と同じ香りだとも、近いとも言いません。産地も年代も違いますし、樹種も同じとは限りません(蘭奢待の樹種は公式には同定されていません)。同じなのは、傷を受けた木が介在師部に樹脂を沈着させるという仕組みだけです。その仕組みを人の手で起こし、数年で採った材がどういうものかは、栽培伽羅とは何かの記事に書いています。

蘭奢待が香る理由を知ると、いま手に取れる小さな香木が香る理由も、同じ一本の線の上にあることが分かります。

参考文献

よくあるご質問

蘭奢待とは何ですか?

正倉院に伝わる香木で、正式な宝物名は黄熟香(おうじゅくこう)です。宮内庁の公式記載では中倉135、長さ156.0cm、重さ11.6kgの「巨大な沈香」で、産地はベトナムからラオスにかけての山岳部とされています。雅名の「蘭奢待」の三文字には「東」「大」「寺」が隠れています。

蘭奢待はどんな香りですか?

2024年度に宮内庁正倉院事務所が行った科学調査では、蘭奢待の香りの印象をもっとも強く決めていたのは、ラブダナム(樹脂状の香料)に似た甘くスパイシーな香りの成分だったと発表されています。保管されていたごく小さな脱落片から300を超える物質が検出され、量がもっとも多かったのは3-フェニルプロピオン酸でした。この分析をもとに、香料会社の調香師がほかの香料を組み合わせて香りを再現しています。再現されたのは調合した香りで、蘭奢待そのものではありません。

蘭奢待は何の木ですか?

宮内庁の公式解説は「巨大な沈香」としています。沈香はジンチョウゲ科アクイラリア属の木が傷を受けて木部に沈着させた樹脂を含む材で、蘭奢待もそれです。種(学名)は公式には同定・公表されていません。推定される産地と分布が重なる種としてAquilaria crassnaが知られていますが、蘭奢待がその種だと確かめられたわけではありません。

蘭奢待を切り取ったのは誰ですか?

宮内庁の公式解説は、切り取らせた人物として足利義政、織田信長、明治天皇の名前を挙げています。それぞれの年や切り取った大きさについては諸説が伝わっていますが、この記事では公式記載に名前のあるこの三人までにとどめています。

蘭奢待はなぜ千二百年たっても香るのですか?

沈香の香りの成分は樹脂の中にあり、常温ではほとんど揮発しません。揮発しにくいから失われにくく、熱を加えてはじめて鼻に届きます。正倉院の宝物として長く倉の中で守られてきたことも、条件として重なっています。

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